毎日使っている水洗トイレ。あれが流れる仕組みを、いま何も見ずに説明できますか。
ファスナーでもいい。自転車でもいい。「だいたい分かってる」と思ったはずです。でも、いざ口に出そうとすると、ほとんどの人は途中で詰まります。
このズレを突きつけてくるのが、認知科学者スティーブン・スローマン氏とフィリップ・ファーンバック氏の『知ってるつもり 無知の科学』です。本書が問うのは、たった一つのパラドックスです。
人間は一人ひとり驚くほど無知なのに、なぜ種としては月面着陸や水爆まで作れたのか。その答えのカギが「知識のコミュニティ」という発想に詰まっています。

この本の核心――知識はあなたの頭の中に「ない」
本書の主張を乱暴に一言にすると、こうです。知性は、個人の脳の中で完結していない。
私たちは「知識のコミュニティ」の中で生きています。自分の頭の中にある知識と、他人やインターネット、道具、環境にある知識。その境界を、人間はうまく区別できません。だから、誰かが知っていることや、検索すれば出てくることまで、あたかも「自分が知っている」と感じてしまう。
「私たちが知識の錯覚のなかに生きているのは、自らの頭の内と外にある知識のあいだに明確な線引きができないためだ。」(本書より)
コーヒーメーカーの仕組みを知らなくても、毎朝コーヒーは飲めます。設計した誰かがいるからです。その恩恵を「自分の能力」と勘違いする。ここが本書の出発点であり、読み始めて最初に背筋が伸びるポイントでもあります。
私見を言えば、この一冊の価値は、ふだん「個人の能力」として語られているものの大半が、実は環境と他者の貸し借りで成り立っていると気づかせてくれる点にあります。
説明させた瞬間に崩れる「わかったつもり」
本書で最も知られているのが「説明深度の錯覚」、英語の頭文字でIoEDと呼ばれる現象です。
認知科学者レオン・ロゼンブリットとフランク・カイルの実験が有名です。被験者にファスナーや水洗トイレの仕組みの理解度をまず自己採点させる。そのあと「では詳しく説明してください」と頼む。
すると説明できず、被験者は自分の理解度の自己採点を下げました。説明させられて初めて、人は自分の無知に気づくわけです。
自転車でも同じ結果が出ています。リバプール大学のレベッカ・ローソンが、チェーンやペダルの欠けた自転車の略図を学生に見せ、足りない部品を描き込ませたところ、ほぼ半分が正しく描けませんでした。毎日乗っているはずの乗り物でも、です。
面白いのは、この錯覚を解く方法が拍子抜けするほど単純なことです。
「知識の錯覚を解くのは驚くほど簡単だ。では説明してくれ、と相手に頼むだけでいい。」(本書より)
「なぜそう思うの」ではなく「具体的にどう動くの」。問いをこう変えるだけで、わかったつもりのメッキが剥がれていきます。会議でも家庭でも明日すぐ試せる実用性があり、私はこの一手を知っただけで本書の元は取ったと感じました。
そもそも脳は「記憶する装置」ではなかった
なぜ人間はこんなに無知なのか。著者は、思考の進化のそもそもの目的にさかのぼります。
思考は、世界を正確に記憶するために進化したのではありません。「有効な行動をとる」ために進化した。だから脳は、細部を全部覚えるのではなく、行動に役立つ因果関係の要点だけを抜き出すようにできている――この説明は、自分の物覚えの悪さを少しだけ許せる気持ちにさせてくれます。
これを裏づける数字があります。ベル研究所のトーマス・ランドアーの計算によれば、平均的な大人が一生で蓄える知識ベースは、たった約1ギガバイト。スマホの写真フォルダ程度しか、私たちは覚えていないのです。
では、全部覚えられたら賢いのか。そうとも限りません。あらゆる経験を細部まで記憶する「超記憶症候群」の患者AJを研究者エリザベス・パーカーらが調査したところ、AJは自分の能力を「ごみ捨て場のよう」と負担に感じ、鍵の置き場所は普通に忘れ、世界の仕組みを理解する力は常人と変わりませんでした。
細部を捨てて本質を抜き出す。それこそが知性の正体だ、と本書は言い切ります。全部覚えることは脳が最も得意とする抽象化と、むしろ矛盾するのです。
ここに本書の含蓄があります。記憶力や情報量を「賢さ」と同一視する常識は、進化の設計図からするとピントがずれている。脳はもともと、忘れることで賢くなるようにできている、という逆説です。
無知を補う最大の仕掛け――他者との協力
無知を補う最大の仕掛けは、他者との協力です。
人間には「志向性の共有」という能力があります。同じものに関心を向け、相手の意図を理解し、共通の目標に向かって協力する力です。ただ同じ出来事を経験するだけではありません。互いが同じ出来事を経験していると認識し合っている。この入れ子の感覚が、他の類人猿にはなく人間だけにあります。
この能力があるから、人間は「認知的分業」ができます。一人がすべてを知る必要はない。それぞれが得意分野を持ち寄り、足りない知識を分担し合う。記憶すら外注しています。
トニ・ジリアーノとダニエル・ウェグナーの研究では、交際3ヶ月以上のカップルは、相手が詳しい分野の記憶を自然と相手に任せていました。「あれ、なんだっけ」とパートナーに聞く、あの何気ない癖が、まさに知識の分業なのです。
なお本書は、機械やAIはこの輪に半分しか入れないとも言います。高度な処理はしても、人間のように意図を共有しないからで、だから機械は「協力者」ではなく「道具」にとどまる、と。
「賢さ」の定義が、静かに書き換わる
知識がコミュニティに宿るなら、賢さも個人だけのものではなくなります。本書は知性を、個人の問題解決能力から「集団の推論にどれだけ貢献できるか」へと、静かに定義し直します。
「知能はもはや個人の推論能力、問題解決能力ではなくなる。個人が集団の推論や問題解決プロセスにどれだけ貢献するかだ。」(本書より)
これを実証したのが、アニタ・ウーリー教授の研究です。3人ずつのチームを40個つくり、集団作業の成績を分析しました。すると、チームの成績を予測したのはメンバー個人の知能指数(g因子)ではなかった。
効いたのは、メンバーの社会的感受性――他者の感情を読み取る力――、そして女性の割合の高さでした。ここに、個人のIQとは別の「集団知能(c因子)」が存在することが見えてきます。
頭のいい人を一人入れるより、互いの感情を読み合えるチームを組む。そのほうが賢く動く。採用や人事評価の常識をやや揺さぶる発見で、私自身、「優秀な人を集めれば強いチームになる」という思い込みを考え直すきっかけになりました。
この知見は社会の分断にも刺さります。人々が政策に強い意見を持つのは、深く理解しているからではありません。むしろ逆で、最も極端な意見を持つ人ほど実際の理解度は低い。
しかも「支持する理由」を語らせても効果はなく、理由を語るとかえって意見は硬くなります。ところが心理学者クレイグ・フォックスらの実験で、別の問い方が見つかりました。
「その施策がもたらす因果的な結果」を順を追って説明させると、人は自分の理解不足に直面し、極端な意見が穏やかになったのです。「なぜ賛成なの」ではなく「それを実行すると、どういう仕組みで何が起きるの」。
問いを一つ変えるだけで、対話の温度が変わります。
ただし著者は限界も正直に書いています。この手法が効くのは経済政策のように結果で測れる問題まで。中絶や安楽死のような「神聖な価値観」が絡む問題には効きません。
心理学者ジョナサン・ハイトの研究では、人は理由を説明できないまま強い拒否反応を示すことが知られています。万能薬として売り込まないこの誠実さが、私には本書の信頼の根拠に見えました。
情報を足すより、環境を変える
本書のもう一つの現実的な処方箋は、「人を教育して正そうとするな」というものです。
私たちはそもそも説明嫌いで、詳しい情報を大量に渡されても読み込みません。退職間近の人に年金商品の詳細パンフレットを見せた実験では、情報量を増やすほど集中力が切れていきました。だから著者は、個人を変えるより環境のほうを変えろ、と説きます。
「個人を変えるより、環境を変えるほうが簡単で効果的であるということだ。」(本書より)
望ましい選択肢を最初から標準設定にしておく。手間のいらないシンプルなルールを作る。情報が必要になる直前に教える「ジャスト・イン・タイム教育」を用意する。
こうした「ナッジ」のほうが、人間の認知の癖に合っています。同じ発想はリーダー像にも及びます。すべてを知っているトップではなく、コミュニティの知恵を束ね、最も詳しい人に責任を委ねられる人こそ有能だ、と。
知識の錯覚を前提にするなら、リーダーの仕事は「自分が一番賢くなること」ではなく「賢さが流れる場を設計すること」に変わる――ここが本書の実務的な核心だと私は受け取りました。
どんな人に効く本か
この本を読んでから、私は「分かってます」と言う前に一拍置くようになりました。本当に説明できるのか、と。
最も危ないのは、無知そのものではなく「自分が何を知らないかを知らない」ことです。著者は無知を欠陥として責めません。むしろ「自分にはできる」という錯覚があったからこそ、人類は未知に挑み、協力できたと肯定します。無知は避けられず、錯覚にもそれなりの役割がある、と。
このメッセージは、自分の理解度を過信しがちな意思決定者にも、分断や対立の和らげ方を探すリーダーにも刺さります。逆に、すでに自分の無知を素直に認められる人や、純粋に個人の頭脳を鍛えたいだけの人には物足りないかもしれません。
本書の魅力は「賢さは一人で完結しない」という地点に立っていることだからです。
知らないことを認めるのは、恥ではありません。それは、誰かと手を組むための余白です。あなたが次に「知ってるつもり」になったとき、その余白を思い出させてくれる一冊として、手に取る価値があります。
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『insight(インサイト)』ターシャ・ユーリックさん 95%の人が「自分を知っている」と思い込んでいる。説明深度の錯覚が「自己理解」の領域で起きるとどうなるか、を深掘りした一冊です。
「考えているつもり」が、一番危ない 本書のタイトル「知ってるつもり」と直結するテーマ。わかったつもりがどこで生まれ、どう抜け出すかを短く整理しています。
