ある高校が体育の授業を変えただけで、生徒の学力が世界トップになりました。
イリノイ州ネーパーヴィルの話です。1時限目の前に心拍数が上がるほど走らせる「0時限体育」を導入したところ、生徒たちは国際的な理科テストで世界1位、数学で世界6位を取りました。
なぜ走ると頭が良くなるのか。その答えを神経科学で解き明かしたのが、ハーバード大学医学部のジョン・J・レイティ氏による本書です。
「運動が脳にもたらすそのような効果は、体への効果よりはるかに重要で、魅力的だ。筋力や心肺機能を高めることは、むしろ運動の副次的効果にすぎない。」
私たちは運動を「体のためのもの」だと思っています。でも著者に言わせれば、それは順番が逆です。
こんな人におすすめ
午後になると頭が働かず、大事な作業がはかどらない人。運動はダイエットのためだと思っていて、なかなか続かない人。
不安や気分の落ち込みを抱えていて、薬以外の選択肢を探している人。集中力が続かず、自分はADHD気味かもしれないと感じている人。
そして、年齢とともに物忘れが増えてきて、「もう歳だから」と諦めかけている人。本書はそのすべてに、運動という一つの答えを返してきます。
この本の核心――運動の第一の目的は、脳を育てること
著者の主張は一貫しています。運動すると気分がすっきりするのは、心臓から血液がさかんに送り出され、脳がベストの状態になるからです。
人類は50万年にわたり、動きながら食糧を探し、知恵を絞って生き延びてきました。身体活動と学習は、もともと生物学的に分かちがたく結びついています。
ところが現代人の運動量は、石器時代の祖先より38%も少ない。動かない生活は、体だけでなく脳も縮ませます。
「動かない生活は脳も殺してしまうということだ。実際に脳は縮んでいくのである。」
逆に言えば、脳は筋肉と同じで、使えば育ち、使わなければ萎縮します。かつて「脳細胞は減る一方」と信じられていた常識を、本書は覆します。
運動は「脳の肥料」を作り、新しい細胞を生む
すべての効果の土台になるのが、BDNF(脳由来神経栄養因子)というタンパク質です。
著者はこれを「脳のミラクルグロ(肥料)」と呼びます。神経細胞(ニューロン)の成長を促し、細胞同士の結びつき(シナプス)を物理的に強くし、細胞の死を防ぐ働きをします。
運動をすると、このBDNFが脳内で大量に分泌されます。さらに筋肉を動かすことで、IGF-1やVEGFといった成長因子が血流に乗って脳に届き、神経細胞の働きを支えます。
驚いたのはここからです。運動は、海馬という記憶に関わる場所で「新しい神経細胞そのものを生む」ことがわかっています。これをニューロン新生と呼びます。
マウスを回し車で走らせると、海馬で新しいニューロンが生まれ、そのマウスは迷路の出口を早く見つけられるようになりました。運動が学習能力を直接高めた証拠です。
ドイツの研究では、運動の前より後のほうが20%早く単語を覚えられました。だから著者は、勉強や新しいことを学ぶ直前の有酸素運動を勧めています。
ネーパーヴィルの体育教師の言葉が、この仕組みを言い当てています。
「わたしたちの授業では、脳細胞を作り出しています。それが育つかどうかは、ほかの教師の腕次第です」
ストレスと不安――体を動かして脳を「再起動」させる
ここから本書は、運動が具体的な心の不調にどう効くのかを、症状ごとに解き明かしていきます。
まずストレスです。意外なことに、運動そのものは脳にとって軽いストレスになります。
ただ、この適度な負荷が細胞の修復メカニズムを起動させ、将来のより強いストレスへの抵抗力を作ります。これがストレス免疫です。
強いストレスを受けるとコルチゾールが過剰に出て海馬を傷つけますが、運動で増えるBDNFがそのダメージから脳を守ります。
次に不安です。運動は脳内の興奮を抑える神経伝達物質GABAを増やし、筋肉の緊張をほぐして、不安が膨らむ悪循環を断ち切ります。
面白いのは、パニック障害への効き方です。運動すると心拍数や呼吸が上がりますが、これはパニック発作の症状とよく似ています。
あえてその状態を運動で経験することで、「この体の変化は危険じゃない、コントロールできる」と脳に教え込めます。恐怖の記憶が、新しい記憶に上書きされていきます。
「あえてそれと正反対の行動をとれば、認知を再構築できる。体を使って脳を治療するのだ。」
本書には、リフォームのストレスから昼間にワインへ手が伸びていた主婦スーザンの話が出てきます。彼女は「イライラしたら縄跳びをする」と決めただけで、ほんの少し跳ぶだけで気分が鎮まり、ワインに頼らなくなりました。
うつ――運動は抗うつ剤と同等、しかも再発しにくい
著者がとりわけ力を込めるのが、うつへの効果です。うつとは、ニューロン同士のつながりが蝕まれた状態だと本書は説明します。
運動は、抗うつ剤がターゲットにするセロトニン、ドーパミン、ノルアドレナリンを自然に増やし、BDNFで脳の萎縮を防いで新しい回路の形成を促します。
これを裏づけるのが、デューク大学のSMILE研究です。うつ病患者を「抗うつ剤だけ」「運動だけ」「両方」の3グループに分けて治療しました。
結果、運動グループは薬と同等の改善を見せました。さらに6か月後の再発率は、運動グループが8%、投薬グループが38%。長い目で見れば、運動のほうが再発しにくかったのです。
深刻なうつでなくても効きます。一日むしゃくしゃした夜でも、運動は同じメカニズムで気分のリセットボタンになります。
ADHDと依存症――注意のむらを整え、古い回路を迂回する
ADHDについて、著者は「注意欠陥」ではなく「注意変動障害」と捉え直します。集中できないのではなく、注意力にむらがあるのです。
その原因は、注意システムを調整するドーパミンとノルアドレナリンの不足です。運動はこれらを即座に増やし、薬(リタリンなど)と同じように集中力を高めます。
とくに武術やロッククライミングのような、バランスや複雑な動きを要するスポーツが効きます。脳の複数の領域が同時に刺激されるからです。
依存症も、脳の報酬系(ドーパミン)が暴走した状態です。運動は薬物によらない自然な爽快感を生み、渇望を抑える代わりの手段になります。
「運動することでシナプスの迂回路が生まれ、薬物を求めつづける既存の回路を使わなくてすむようになる。」
お酒や甘いものへの欲求も、軽い運動で別の回路へ迂回させることができます。運動は、すでに起きたダメージを修復する解毒剤であると同時に、未来の不調を防ぐ予防薬でもあります。
ホルモンと加齢――女性の不調を和らげ、老化を逆行させる
女性のホルモン変動にも、運動は効きます。PMS(月経前症候群)は約75%の女性が経験し、14%は仕事や学校を休むほど重くなります。
月経前はホルモンの急変で脳内のバランスが崩れますが、運動でGABAなどが調整され、イライラや気分の落ち込みが大きく和らぎます。妊娠中や閉経期の不調にも同じことが言えます。
そして加齢です。年齢とともに脳細胞やネットワークは自然に減りますが、本書はそれを運動で「遅らせる、あるいは逆行させられる」と言います。
イリノイ大学のクレイマーらが、60〜79歳の高齢者に週3回のウォーキングを半年続けさせたところ、前頭葉と側頭葉の皮質容積が増えました。つまり、脳が物理的に大きくなったのです。
週2回運動した65歳以上の女性は、認知症になる確率が50%低かったという研究もあります。
「脳は活発な成長を止めたとたん、死に向かい始める。運動は老化の進行を阻むことのできる数少ない方法のひとつだ。」
いくつから始めても遅すぎることはない、と著者は断言します。
明日から何を変えるか
本書は精神論ではなく、心拍数に基づいた具体的な処方箋を示します。今日から始められる3つに絞ります。
1. 「220−年齢」で最大心拍数を出し、週4日歩くか走る その60〜75%(少し息が上がる程度)で、30分から1時間。これでBDNFとセロトニンを脳に送り込みます。スマートウォッチがあれば心拍数を確認しながら進めます。
2. 週2日は、数分の全力疾走を混ぜる 最大心拍数の75〜90%に達する激しい運動を取り入れます。HGH(ヒト成長ホルモン)が分泌され、脳と体のアンチエイジングが加速します。
3. 不調を感じたら、ワインや甘いものより先に10分動く イライラや落ち込みを感じたら、まず縄跳びや早歩きで脳の回路を再起動させます。テニスやヨガなど複雑な動きを週2回足すと、神経網がさらに広がります。
ポイントは、足の速さではなく「自分なりに努力したか」です。ネーパーヴィルが成功したのも、才能ではなく心拍数で努力を評価したからでした。
おわりに
「最近、頭が働かない」「気分が晴れない」と感じたとき、私たちはつい原因を探して動けなくなります。本書が示すのは、その逆の順番です。
まず動く。すると脳が変わる。
明日の朝、いつもより10分早く家を出て歩いてみる。たったそれだけで、脳の肥料が分泌され始めます。
「あなたは遺伝子も感情も、体も脳もすべて、活動的な生活を渇望している。わたしたちは動くように生まれついているのだ。」
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