本文へスキップ
ブクドリ | BOOK DRIP

一つのことをとことん極めた人には、何が見えているのか

更新日:
約7分で読めます キャリア・働き方
目次

チェスの名人に、駒をでたらめに並べた盤を5秒だけ見せます。そのあと再現してもらうと、名人が正しく戻せた駒は平均2個でした。チェスを始めたばかりの初心者は3個です。

同じ名人が、実際の対局に出てくる局面なら、初心者よりはるかに多くの駒を戻せます。記憶力そのものが特別に良いわけではないのに、です。

「一つのことをとことんやった人だけが見える景色がある」と言われます。この実験は、その景色が実在することと、それが何でできているかを同時に教えてくれます。


名人は、盤面を「かたまり」で見ている

この実験は、心理学者のウィリアム・チェイス氏とハーバート・サイモン氏が1973年に発表したものです。参加者は名人、上級者、初心者の3人だけでしたが、熟達研究の出発点になりました。

二人の解釈はこうです。名人は駒を1個ずつ覚えているのではありません。キャスリングを済ませた王とその前に並ぶポーンのように、対局で何度も見てきた配置をひとかたまりで捉えている。だから実戦の局面では多くの駒を戻せますし、でたらめな盤ではそのかたまりが見つからず、初心者と変わらなくなります。

のちにフェルナン・ゴベ氏とサイモン氏は1996年、でたらめな盤を使った13の実験を並べ直しました。強い側が弱い側を上回ったのは13件中12件で、名人の優位はゼロにはなりません。ただ、その差はレーティング400点につき駒1個ほど。実戦の局面での約5個に比べると、ずっと小さいものでした。

つまり、名人の景色のほとんどは、その分野で見てきた型の在庫でできています。

今井むつみさんの『学びとは何か』も、将棋のプロ棋士について同じ現象を紹介しています。実戦の局面なら数秒見ただけで駒の配置を再現できるのに、無意味に並べた盤では初心者と成績が変わらない。今井さんは熟達者の強みを、記憶力の良さより、知識をもとに見るべきところを見極める力に置いています。

実務に置き換えると、「経験を積めば目が肥える」は半分だけ正しいことになります。目が肥えるのは、同じ型を何度も見て、それが型として手元に残ったときです。

たとえば、毎月の売上をただ眺めてきた人と、動くたびに「これは季節要因」「これは単価の問題」と名前を付けてきた人がいるとします。同じ5年でも、手元に残る型の数はまるで違ってくるはずです。


深く入るほど、見える単位が「表面」から「原理」に変わる

型の在庫が増えると、次に変わるのは「何を同じとみなすか」です。

認知科学者のミシェリン・チー氏らは1981年、物理学の博士課程の上級生8人と、力学の授業を1学期終えたばかりの学部生8人に、教科書から選んだ力学の問題24問を「解き方が似ているもの」同士でグループに分けてもらいました。紙と鉛筆は使わせず、解かずに分けさせています。

できたグループの数は、どちらも8つ余りでほぼ同じでした。違ったのは分け方の基準です。

学部生は「斜面の上のブロック」「回転するもの」のように、問題に出てくる物や状況の見た目でまとめました。博士課程の学生は、見た目がまるで違う問題を「エネルギー保存」「ニュートンの第二法則」のように、解くのに使う原理でまとめています。

おもしろいのは、1回目の分類にかかった時間です。1問あたり、博士課程の学生は平均45秒、学部生は30秒でした。熟達者は速く判断したわけではありません。見ているものが違ったんです。

ただし、この差は年数だけで決まるものでもありません。のちに大人数の入門クラスで同じ種類の課題を試した研究では、学部生の中にも原理で分ける人が少なからずいて、チー氏らの8人より分布の幅が広かったと報告されています。

佐藤可士和さんが『佐藤可士和のクリエイティブ・シンキング』で語る体験は、この「原理で分ける目」が分野をまたいで働いた例として読めます。

佐藤さんは若いころ音楽活動に没頭し、その中で「作曲するのと絵を描くことは同じだ!」と気づいたといいます。それが「表現するとはどういうことか」をつかむことにつながり、いまの活動の根っこになっている。スノーボードに熱中した時期には、「バランス」という概念の大切さを体で知ったとも書いています。

作曲と絵は、見た目の上では共通点がありません。同じ箱に入れられるのは、原理の水準で眺めたときだけです。佐藤さんは、深く入り込めばいつか突き抜ける瞬間があり、その先の本質的な部分に行き着けると言います。私はこれを、見る単位が表面から原理へ切り替わる瞬間のことだと受け取っています。


見慣れた型は、もっと良い答えを隠す

型で見る力には裏面があります。見慣れた型がすぐ見つかるほど、それ以外を探さなくなることです。

メリム・ビラリッチ氏、ピーター・マクラウド氏、ゴベ氏は2008年、この裏面をチェスで測りました。使ったのは、有名な手筋を使えば5手で詰む局面です。実はこの局面には、あまり知られていない3手詰めもあります。熟達者34人に「最短の勝ち方」を探してもらいました。

グランドマスター6人は全員が3手詰めを見つけました。ところが、その一段下の国際マスター6人では半数、マスター11人では18%、キャンディデートマスター11人では誰も見つけられませんでした。

見つけられなかった人も、駒を1つ動かして有名な手筋が使えなくなった局面では、全員が3手詰めを解いています。解く力はあったのに、見慣れた5手詰めが先に見えたせいで、そこから離れられなかったわけです。

研究チームの計算では、見慣れた答えがあるだけで、熟達者の問題解決力はレーティングの標準偏差3つ分ほど下の人の水準まで落ちていました。結果を知らない別の熟達者12人は、マスターの74%が見つけると予想していました。実際は18%です。

発話の記録を見ると、見つけられなかった人も、有名な手筋に気づいたあと8秒前後はほかの手を探していました。それでも「これが答えだ」と結論しています。本人は、探したつもりでいるんです。


深さと幅は、どちらが正しいのか

この結果は「専門を深めるほど頭が固くなる」とも言い切れません。いちばん強いグランドマスターたちは、見慣れた型に引っ張られませんでした。

今井さんの本には、羽生善治さんが膨大な棋譜を頭に入れながら、必要でないときには大胆に捨てることで、知識による思い込みにとらわれないようにしているという話も出てきます。

一方で、幅の側からの反論も根強くあります。デイビッド・エプスタイン氏は『RANGE』で、ルールが明確で結果がすぐ返ってくる環境では早い専門化が効くものの、ルールが変わる環境では狭い専門性が裏目に出やすいと論じました。

2025年に科学誌『サイエンス』に載ったアルネ・ギュリッヒ氏らの分析は、ノーベル賞受賞者やオリンピックのメダリストなど3万4839人の経歴をまとめ直しました。大人になって世界の頂点に立った人ほど、若いころは複数の分野に取り組み、伸び方も緩やかだった傾向が報告されています。

ただしこれは、記録の残った人を後から振り返った相関の分析です。分野を広げたことが頂点に立った原因だ、とまでは言えません。

二つの立場を並べると、争点は「深さか幅か」の二択ではなさそうです。私が危ういと考えるのは、型が見えるようになった段階で、その型を答えだと思い込んで止まってしまうことです。チェスでいえば、グランドマスターの一段手前にいた人たちでした。


「とことん」を景色に変える3つの習慣

誤解:時間をかけて続けていれば、自然と見えてくる → 続けた時間が、型として残るとは限りません。1件終えるごとに「これは何の型だったか」を一言で書き留めると、在庫として残ります。たとえば問い合わせ対応なら、「使い方の誤解」「期待と仕様のズレ」のように、自分なりの名前を付けていきます。

誤解:本質は、ある日ひらめくものだ → チー氏らの実験で熟達者を分けたのは、分類の基準でした。過去の案件を10件ほど並べ、業界や商品の違いは脇に置いて「何が効いて解決したか」で分け直してみてください。見た目の違う案件が同じ箱に入ったら、原理が見え始めた合図です。5分あればできます。

誤解:最初に浮かんだ答えは、経験に裏打ちされている → 裏打ちされているからこそ、ほかの答えを隠します。見慣れた解決策が浮かんだら、それを使えないとしたらどうするかを1案だけ出してから決めます。ビラリッチ氏らの実験でも、有名な手筋を封じられた人は全員が短い詰みにたどり着いていました。


佐藤さんの本には、美術、音楽、スノーボード、Macと、深く入り込んだ対象がいくつも並んでいます。「一つのことをとことん」は、一生を一つに絞る話というより、入り込んだ対象ごとに原理が見える深さまで行く話なのかもしれません。

次に何かをとことんやるときは、続けた時間より、見るたびに名前を付けた型の数を数えてみてください。


この記事で参考にした本

『佐藤可士和のクリエイティブ・シンキング』佐藤可士和 → 音楽やスノーボードへの没頭から、分野をまたいで通じる「本質」をつかんだという体験

『学びとは何か-〈探究人〉になるために』今井むつみ → 熟達者の記憶は知識に支えられていること、羽生善治さんが知識を「捨てる」話

『RANGE(レンジ)』デイビッド・エプスタイン → ルールが変わる環境では狭い専門性が裏目に出やすいという、幅の側からの反論


合わせて読みたい

「言葉にできない」の正体 経験から身についているのに言葉にならない知識を、ポランニー氏の「暗黙知」から追ったコラムです。見えている型に名前を付けて残すという本記事の習慣と、同じ問題の表と裏にあたります。

去年の成功を、今年も繰り返した。通用しなかった。 うまくいったやり方ほど変えられなくなる仕組みを、企業の事例と研究から追ったコラムです。見慣れた型が良い答えを隠すという話の、組織版として読めます。

『センスは知識からはじまる』水野学|「センスがない」は言い訳にすぎない センスを生まれつきの才能ではなく、知識の集積として捉え直す一冊の書評です。名人の景色が型の在庫でできているという本記事の話を、デザインの現場から裏付けてくれます。