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ブクドリ | BOOK DRIP

なぜ働いていると本が読めなくなるのか、その構造

約6分で読めます 学習・インプット
目次

本が読めないのは、あなたの意志が弱いからではありません。むしろ真面目に働いているからです。

スマホでSNSや動画は何時間でも見られる。なのに、本を開くと数ページで集中が切れる。多くの人がこれを「自分の根性のなさ」だと思っています。

でも、原因はもっと構造的なところにあります。仕事が求めるものと、読書が与えるものが、そもそも別の種類だからです。

文芸評論家の三宅香帆さんは『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』で、この問いを個人の時間管理ではなく、日本の労働と読書の歴史から解き明かしました。今日はその視点を軸に、読書の本質まで掘り下げてみます。

「忙しいから」は、半分しか正しくない

まず数字を一つ。

成人を対象にした調査で、読書量が「減った」と答えた人のうち、理由に「仕事や家庭が忙しくなったから」を挙げた人は約49%でした。一方で「SNSの影響」を挙げた人は6.2%にすぎません。

意外ではないでしょうか。私たちはつい「スマホのせいで本を読まなくなった」と考えがちです。でも実際の主因は、ネットではなく忙しさでした。

ただ、ここで終わると「だから時間を作りましょう」という凡庸な話になります。三宅さんの面白さは、その先にあります。

なぜ、同じ疲れた状態でも、スマホは見られて本は読めないのか。鍵は、ネットが「ノイズのない情報」を提供してくれる点です。SNSは自分に関係のある、欲しい情報だけを効率よく流してくれる。疲れた頭でも処理できます。

本はそうはいきません。読書には、自分に関係のない他者の文脈や歴史が含まれます。それを受け取るには、ある程度の精神的な余白がいる。忙しさはその余白を削ります。

たとえば、満員電車での通勤を思い出してください。かつてはここが読書の時間でした。実際、首都圏で1日の鉄道移動が1時間以下の人の割合は、1970年の70%から1980年には46%に減っています。移動時間は増えたのに、私たちはその時間を本ではなくスマホに使うようになった。疲れた頭が、より楽なほうを選ぶからです。

仕事が求めるのは「情報」、読書がくれるのは「教養」

ここが核心です。

三宅さんは、読書の本質を「ノイズ」と再定義します。ノイズとは、即効的な「情報」には含まれない、他者の文脈や予測不可能な展開のこと。たとえば小説を読むと、自分の人生に直接関係のない誰かの感情を、延々と追体験させられます。仕事にはすぐ役立ちません。

一方、現代の労働が求めるのは、ノイズを除去した「情報」です。明日すぐ使える、効率的で、答えが明確なもの。検索すれば一発で出てくるような知識です。

この対比は、別の本とも響き合います。齋藤孝さんは『読書する人だけがたどり着ける場所』で、ネットの文章と本では「向かい方」が根本的に違うと言っています。ネットは情報を次々消費するのに向いている。本は著者の思考をじっくり追体験する「体験」です。

齋藤さんはこの体験が「認識力」を育てると指摘します。複雑な感情や文脈を捉える力です。たとえば文学には「嬉しい」とも「悲しい」とも言い切れない感情が描かれる。それに触れることで、人を理解する解像度が上がる。

つまり、読書がくれるのは即効的な情報ではなく、すぐには役に立たない教養です。役に立たないものを受け取る余裕が、今の私たちから削られている。

「全身全霊」が、教養の余白を奪う

ではなぜ余裕が削られたのか。三宅さんは「全身全霊」で働く文化を犯人として挙げます。

歴史を遡ると面白いことがわかります。読書とビジネスは、もともと相性が良かった。明治時代、スマイルズの『Self-Help』を翻訳した『西国立志編』は、人口5000万人の時代に100万部売れました。立身出世のための自己啓発書として、働く青年たちが夢中で読んだのです。

労働時間も、今より長かった。明治後半の鉄工業労働者は1日13〜16時間働いていました。それでも本は読まれていた。だから「忙しいから読めない」だけでは説明がつきません。

変わったのは1990年代以降です。新自由主義のもとで「仕事で自己実現せよ」という価値観が広がり、人々は自発的に自分を仕事へ捧げるようになりました。生活のすべてが仕事に染まる。三宅さんはこれを、哲学者ヨゼフ・ピーパーの言葉を借りて「トータル・ワーク」と呼びます。

ここに、ひとつのねじれがあります。労働時間そのものは減っているのに、人は前より疲れている。年間総実労働時間は1960年の2426時間から2020年には1685時間まで縮みました。それでも本が読めない。つまり問題は、働く長さではなく、働き方への没入の深さなのです。たとえ定時で帰っても、頭の中が仕事で満たされていれば、読書のための余白は生まれません。

全身全霊で一つの文脈に没頭すると、別の文脈を受け入れる隙間がなくなります。仕事に関係ないノイズ、つまり読書は、真っ先に切り捨てられる。バーンアウトの一歩手前で、人は本を閉じるのです。

三宅さんの処方箋は「半身で働く」こと。身体の半分を仕事に、残り半分を家庭や趣味や読書に置く。全部を仕事に注がない。その余白にこそ、教養が戻ってくると言います。

多読すれば教養が戻る、わけではない

ここで一つ、注意したいことがあります。

「では余白を作って、たくさん本を読もう」と考えたくなります。でも、量を増やせば教養が深まるとは限りません。

19世紀の哲学者ショーペンハウアーは『読書について』で、こう喝破しました。読書とは「自分の頭ではなく、他人の頭で考えること」だと。本を読んでいる間、私たちの精神には他人の思想が刻印され続けます。多読に走ると、印章を押され続けた封蠟のように、自分で考える弾力が失われていく。

これは三宅さんや齋藤さんの「読書は素晴らしい」という主張と、一見ぶつかります。でも、私はむしろ補い合っていると思います。

ショーペンハウアーが批判したのは、隙間時間に手当たり次第、考えずに読み流すこと。彼は「一分でも空き時間ができたら、すぐ本を手に取る」習慣をやめろと言います。これは、効率よくノイズのない情報を浴び続ける現代の消費スタイルと、構造が似ています。

だから問題は、量ではなく向き合い方です。

誤解:とにかく読む冊数を増やせば、教養がつく → 流し読みの多読は、情報消費と変わりません。他人の頭を借りただけで終わります。

正しいアプローチ:1冊を、自分の頭で考えながら読む → 読んだあと本を閉じ、自分の言葉で考え直す。この反芻が、情報を教養に変えます。

具体的な一歩はシンプルです。週に1時間、今の仕事に直接関係のない本を、メモも取らずにただ読む。小説でも、歴史でも、まったく違う分野でもいい。大事なのは「役に立つか」で選ばないことです。読み終えたら一行だけ、自分が何を感じたかを書く。それだけで、削られていた余白が少しずつ戻ってきます。

齋藤孝さんは、寝る前の1時間を読書にあてることをすすめています。日中はSNSのような浅いやり取りに終始しても、夜に本を開けば、その時間だけ「突如深くなる」。半身の片方を、毎晩取り戻す習慣だと言えます。

おわりに

本が読めないのは、能力でも意志でもなく、構造の問題でした。

仕事が「情報」を求め、全身全霊の働き方が教養の余白を奪う。だから、まず半身に戻る。そして取り戻した時間で、役に立たない本を、自分の頭で考えながら読む。

役に立たないものを抱える余裕こそが、長い目で見れば一番役に立つのかもしれません。


この記事で参考にした本

『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』三宅香帆 → 読書を「ノイズ」と再定義し、全身全霊の労働がそれを排除する構造を、労働と読書の歴史から解き明かした一冊。

『読書する人だけがたどり着ける場所』齋藤孝 → ネットの情報消費と読書の「体験」の違い、読書が育てる「認識力」について教えてくれる。

『読書について』ショーペンハウアー → 「読書は他人の頭で考えること」と喝破し、無批判な多読への警鐘を鳴らす古典。読書礼賛への解毒剤になる。


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