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『絶望を希望に変える経済学』アビジット・V・バナジー&エステル・デュフロ|経済の目的はGDPではなく「人間の尊厳」だった

思考法・問題解決
約7分で読めます

経済学者は、気象予報士の半分しか信用されていません。

2017年のイギリスの調査で、意見を信用できる職業の1位は看護師(84%)。最下位は政治家(5%)。

経済学者は下から2番目で、信用度はわずか25%でした。アメリカでも、経済学者の発言を信じる人は4人に1人だけです。

なぜここまで信用を失ったのか。そして、それでもなお「希望を持つために本書を書いた」と語る著者たちは、何を見ているのか。

本書は2019年にノーベル経済学賞を受賞したアビジット・V・バナジー氏とエステル・デュフロ氏が、移民・貿易・成長・不平等という分断の時代の難問に、データだけを武器に挑んだ一冊です。読み終えたとき、経済の話のはずなのに、最後に残るのは「人間の尊厳」という言葉でした。

こんな人におすすめ

この本の核心――「よい経済学」と「悪い経済学」

本書は、世の中の経済論議を二つに分けます。

悪い経済学は、特定のイデオロギーに執着し、不都合な証拠を無視します。予測できないはずの未来を自信たっぷりに断言し、人々の楽観を煽ります。テレビで極端な予測を語る自称エコノミストたちが、これです。

よい経済学は逆です。複雑で不確実な現実を認め、事実に基づいて慎重に推論します。間違いを認める勇気を持ち、人間の「尊厳」を解決策に組み込みます。

著者はこう書いています。

私たち経済学者は自分のモデルや自分の研究手法に執着し、どこで科学が終わってどこからイデオロギーが始まったのか、気づかずにいることがあまりに多い。

専門家であるはずの著者たちが、まず自分たちを疑う。この謙虚さが本書全体を貫いています。

経済学を「絶対の真理を説く科学」ではなく、配管工や医学研究のような「試行錯誤の実践」として捉え直す。だからこそ、わからないことは「わからない」と正直に書ける。これが本書最大の強みです。

移民は本当に仕事を奪うのか――「紙ナプキン経済学」の罠

多くの人が信じている理屈があります。「移民が増えれば労働の供給が増える。だから賃金は下がる」。

需要と供給の単純な法則です。著者はこれを「紙ナプキンの裏にも書けるほど単純で、しかも間違っている」として「紙ナプキン経済学」と呼びます。

実際のデータは、この通念を覆します。低技能の移民がかなり大量に流入しても、受け入れ国の労働者の賃金や雇用を押し下げるという信頼できる証拠は、存在しません。むしろ移民は新しい需要を生み、経済に利益をもたらします。

さらに意外な事実があります。経済学のモデルは「いい仕事があれば人はどこへでも移動する」と仮定します。

でも現実の人間は、慣れ親しんだ土地を簡単には離れません。著者はこれを経済の「硬直性(スティッキーさ)」と呼びます。

なぜ移動しないのか。持ち家がある。家族や友人がいる。

そして、見知らぬ街で一番下からやり直してプライドが傷つくのが怖い。ここでも理由は経済合理性ではなく、人間の心です。

そしてもう一つ。著者はフランスの政治家マリーヌ・ルペン氏をめぐる実験を紹介します。有権者に「移民の95%は働いている」という事実を教えても、彼らの意見は変わらず、むしろルペン氏に投票したくなった。

事実を突きつけても、人は考えを変えない。この厄介な真実が、後の「分断」の話につながっていきます。

自由貿易の「痛み」は一部の地域に集中する

教科書は教えます。自由貿易は国全体を豊かにする、と。

理論上は正しい。でも著者は、その理論の影を見逃すなと言います。

安い輸入品が入ってくると、特定の産業や地域の労働者が集中的に打撃を受けます。代表例が「チャイナ・ショック」です。中国との貿易が拡大したとき、アメリカの工業地帯(ラストベルト)の労働者は職を失っても他地域へ移れず、失業と貧困を一身に背負いました。

理論上は「勝者の利益を敗者に再分配すれば全員が豊かになる」とされます。でも現実にその再分配は機能せず、敗者は何年も苦しみ続けます。テネシー州の町々は、工場が次々に引き揚げ、現代のゴーストタウンになりました。

著者はこう釘を刺します。

モノと人、そしてアイデアや文化の交流が世界を豊かにしてきたことはまちがいない。だがそれ以外の大勢の人々にとっては、いいことばかりだったとは言えない。

全体の利益という言葉の陰で、取り残された人々がいる。その痛みを見ないふりをしてはいけない、というのが本書の一貫した姿勢です。

なぜ分断は加速するのか――エコー・チェンバーと「動機づけられた信念」

第4章で著者は、人間の「好み」が実は不安定なものだと指摘します。経済学は普通、個人の好みは一貫していると仮定します。

でもチューリヒ大学の実験では、金融業界で働いていることを意識させただけで、被験者が嘘をつく確率が3%から16%に跳ね上がりました。人は、自分が属する集団によって倫理観すら変わってしまうのです。

そして分断を加速させるのが、二つの仕組みです。

ひとつはエコー・チェンバー(残響室)。同じ意見の人ばかりがネット上で集まり、心地よい声だけが反響して、極端な考えが増幅されます。

もうひとつは動機づけられた信念。人は「自分はまともで偏見のない人間だ」と思いたい。

そのために、自分のイメージを脅かす情報を遮断します。だから事実を提示しても、考えを変えない。

人間は、考えを変えるのを嫌うものだ。なぜなら、変えるということは、最初の考えがまちがっていたと認めることになるからである

では、どうすれば分断を超えられるのか。著者の答えは意表を突きます。差別と正面から戦うのではなく、共通の目的のために協力する「接触」の機会を作ること。

ボストンで低所得地区の子どもを郊外の学校へ通わせたところ、受け入れ側の子どもの世界観に良い変化が生まれました。異なる人と対等に接する経験こそが、偏見をほどくのです。

経済成長の「決め手」は、実は誰にもわからない

第5章で著者は、ある意味で衝撃的な告白をします。富裕国でかつてのような高度成長が戻るのか、何が成長を導くのか――経済学者にも明確な答えはありません。

ノーベル賞経済学者マイケル・スペンス氏が委員長を務め、300人もの研究者が参加した成長開発委員会の最終報告は、こう結論づけました。「成長を導く一般原則といったものは存在しない」。

だからこそ著者は、不確かな成長を無理に追い求めるのをやめようと言います。

最も重要なのは、GDPはあくまで手段であって目的ではないという事実を忘れないことである。

GDPは手段にすぎない。本当の目的は、平均的な市民、とりわけ最貧層の「生活の質」を上げることです。

不平等は「政策の結果」だった――そして尊厳の経済学へ

不平等の拡大は、避けられない技術革新の副産物ではありません。著者ははっきりと、それは政策決定の結果だと言います。

1980年代のレーガンやサッチャーによる富裕層減税、労働組合の弱体化、規制緩和。これらが格差を爆発的に広げました。

しかも「富裕層を減税すれば成長する」という主張を裏付けるデータは、見つかっていません。一部の「スーパースター企業」や金融トップ層に富が集中する「勝者総取り」が進んだだけです。金融業の高額報酬の多くは、能力ではなく地位による「レント(超過利潤)」だと著者は指摘します。

ではユニバーサル・ベーシックインカム(UBI)が答えか。著者は慎重です。

最大の障壁は財源。既存の福祉を全廃してUBIに充てれば、いま手厚い支援を必要とする最貧層がかえって苦しみます。

そして本書は、最も大切な一点にたどり着きます。お金を配るだけでは足りない。人に必要なのは、社会に認められ、必要とされているという「尊厳」です。

経済学者は幸福や福祉という概念をひどく狭く定義する傾向がある。たとえば所得だとか、物質的な消費、といった具合に。だが、豊かな人生を送るために私たちが必要とするのはそれだけではない。周囲や社会に認められ、重んじられること。家族や友人が幸せに暮らしていること。そして、人間としての尊厳。

フランスの地域青年局は、仕事に就けない若者に「あれをしなさい」と上から指導するのをやめました。代わりに彼らの夢をじっくり聞き、「あなたならできる」と敬意を持って接した。すると若者たちは自己肯定感を取り戻し、前向きに動き始めました。

尊厳を回復させること。それ自体が、最も効果的な支援だったのです。

明日から何を変えるか

本書の知恵は、社会政策の話だけにとどまりません。日常にそのまま効きます。

1. 極端な主張を見たら、一拍置いて「実際のデータは?」と問う 「移民が仕事を奪う」「AIが全部消す」。わかりやすい物語ほど疑う。事実に当たる習慣が、ポピュリズムへの最良の防御になります。

2. 意見が違う相手を、論破しようとしない 怒りや偏見の裏には「見捨てられている」という不安が隠れています。まず相手の価値観と尊厳を認める。対話はそこから始まります。

3. 数字以外のものさしで、自分の生活を測る 年収や規模だけで物事を判断するのをやめてみる。自分や周りが「誇りを持って生きられているか」。この視点が、社会を変える最初の一歩になります。

おわりに

経済学の本を読んで、最後に「尊厳」という言葉が残るとは思いませんでした。

本書が誠実なのは、わからないことを「わからない」と認めるからです。成長の特効薬はない。でも、できることはある。

データに謙虚に向き合い、敗者への共感を捨てない。その地道な積み重ねだけが、絶望を希望に変える。

著者たちは、人間らしく生きられる世界を願う私たち誰もが声を上げなければならない、と本書を締めくくります。分断と不安の時代に、事実と思いやりを武器に進む道を示してくれる。そういう一冊でした。


合わせて読みたい

『「原因と結果」の経済学』中室牧子・津川友介 本書が繰り返す「データに謙虚に向き合う」とはどういうことか、相関と因果を切り分ける具体的な手法として学べます。よい経済学の思考の土台を固めたい人に。

『対立という名の罠から抜け出す方法』アマンダ・リプリー 本書の「分断を超える」「相手の尊厳を認める」という核心を、実践的なコミュニケーションの技術に落とし込んだ一冊。エコー・チェンバーから抜け出す具体策が欲しい人に。

『戦略ごっこ』 「みんなが信じている常識をエビデンスで覆す」という本書の痛快さが好きなら、ビジネスの世界で同じことをやってのけるこちらも刺さります。思い込みをデータで壊す快感をもう一度。


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