何回説明しても伝わらない。あれは、あなたの説明が下手だからではありません。
部下に同じことを三度言った。子どもに何度も注意した。それでも伝わらない。私たちはつい「言い方を変えよう」と考えます。もっと丁寧に、もっと論理的に。でも本書は、その前提そのものを疑います。間違っているのは言い方ではなく、「心の読み方」だ、と。
著者の今井むつみさんは認知科学・言語心理学の研究者です。本書が示すのは、小手先の言い換えではなく、人間がそもそもどうやって理解し、記憶し、誤解する生き物なのかという話。「話せばわかる」が、なぜ幻想なのか。読み終えると、伝わらなさへのイライラが少し軽くなります。
こんな人におすすめ
- 部下や生徒に「何回言ったらわかるんだ」と感じてしまう管理職・教員・親
- 正論を言っているのに、なぜか相手と平行線になりがちな論理派
- 話し方・伝え方のノウハウ本を読んでも、すれ違いが消えなかった人
- 「言った・言わない」のトラブルに繰り返し巻き込まれている人
この本の核心――「話せばわかる」は、認知科学的にほぼ幻想
私たちは、相手の言葉をそのまま脳にコピーしているわけではありません。一人ひとりが持つ「スキーマ」というフィルターを通して、勝手に解釈し直しています。
「間違っているのは『言い方』ではなく、そもそもの『心の読み方』なのです。」
スキーマとは、頭の中にある「当たり前」の知識の枠組みのこと。そして、この「当たり前」は人によって違います。英語の wear は帽子も眼鏡も衣服も含みますが、日本語の「着る」は服を身につける動作に限られます。同じ「ネコ」という言葉でも、思い浮かべる像は人それぞれ。だから、自分が当然だと思って話したことが、違うスキーマを持つ相手にはまったく違う意味で届きます。
「あなたが意図した通りに伝わっているか、正しく理解されているかどうかは、実際のところ、『あなたとは関係のないところ』で決まってしまう」
伝わるかどうかは、受け手のフィルター次第。つまり「正しく理解されること」のほうが、むしろ例外なのです。本書はこの不都合な事実を出発点に据えます。
記憶は脆く、書き換わる――「言った・言わない」が起きる理由
すれ違いのもう一つの原因は、人間の記憶が驚くほどあてにならないことにあります。
人間の記憶容量は、想像よりずっと小さい。スティーブン・スローマン教授の説では、人の記憶容量はおよそ1GBほど。一番容量の少ないiPhoneでも128GBですから、128人集まってやっとiPhone1台分です。しかも、重要だと感じない情報はすぐ忘れます。だから「言った側は覚えている。言われた側は忘れている」というすれ違いが日常的に起きます。
さらに厄介なのは、記憶が後から書き換わること。エリザベス・ロフタス教授の実験では、カバンをひったくる寸劇のあとにサクラが「犯人にヒゲがあった」と嘘の証言をすると、もともと「ヒゲはなかった」と思っていた学生まで同調し、クラス全体が「ヒゲがあった」と信じ込みました。著者自身も、駐車場で別の女性から確信を持って「車をぶつけられた」と言われ、自分の記憶を疑ってしまった経験を語っています(調べた結果、ぶつけていなかった)。
「たとい嘘をつくつもりがなくても、誰かの発言や自分の願望、感情、そして自身のスキーマによって、記憶は影響を受け、あなたにとっての『事実』がいつの間にかつくり上げられてしまうのです。」
悪意がなくても、記憶は変わる。本人の中ではそれが「真実」になっている。だから「言った・言わない」の対立は、どちらかが嘘つきという話ではないのです。
認知バイアス――専門性すら、視点を歪ませる
理解を妨げるのは記憶だけではありません。誰の頭にも認知バイアス、つまり思考の偏りが潜んでいます。
代表的なのが「小さな世界」バイアス。自分の狭い経験を基準に「これが普通だ」「みんなそうだ」と思い込む傾向です。「信念」と「信念バイアス」も別物で、本書はこう区別します。信念は「自分がこうしようというもの」、信念バイアスは「それを他人にもそうさせようというもの」。自分のやり方を周囲に強いはじめたら、それはバイアスです。
意外なのは、専門性が偏りを生むという指摘です。
「専門性を追求するということは、ある部分をどこまでも深掘りするということです。それはある意味で、視点を偏らせることでもあり得る」
同じデータを見ても専門家同士で意見が割れるのは、それぞれが特定のスキーマを通して現象を見ているから。新型コロナ対策でも、専門家ごとに違う見解が飛び交い、市民が誰を信じればいいかわからなくなりました。専門家だから正しく見えている、とは限らないのです。
そして現代特有のバイアスが「流暢性バイアス」。すらすら分かりやすく説明されると、内容が薄くても間違っていても「正しい」と信じてしまう傾向です。生成AIの流暢な回答を鵜呑みにしてしまうのも、これが効いています。ある弁理士のところには、ChatGPTが作った実在しない事例を堂々と主張するクライアントが現れたといいます。
伝えるための3つの手――メタ認知、具体と抽象、そして「理由」
では、わかり合えない前提でどう伝えるか。本書が示す解決策は、相手をねじ伏せる技術ではありません。
ひとつ目は、メタ認知と心の理論です。メタ認知とは、自分の思考や判断を一歩引いて客観視する力。心の理論とは、相手が自分とは違う知識・意図を持っていると理解する力です。人は多くの場面で直感的なシステム1で判断しますが、それをじっくり考えるシステム2で点検する。文章を書くときも「書く側の視点」ではなく「読む側の視点」に立つ。これがメタ認知の実践です。
ふたつ目は、具体と抽象の往復です。
「たった1つの例で、全体を知ることはできません。概念を理解するためには、具体例という『点』の知識を、『面』の知識に広げる必要があります。」
「TPOをわきまえて」という抽象的な指示だけでは伝わりません。「フォーマルなスーツにネクタイで」という具体例を添える。ただし強烈な例を1つだけ出すと、それが「全部」だと過剰一般化される。だから複数の例(点)を示して、概念(面)を描かせます。
みっつ目は、理由(because)を添えること。これが一番強力です。ハーバード大学のエレン・ランガーの実験では、コピー機の順番待ちで割り込みを頼むとき、理由なしだと成功率60%。ところが「コピーをしなければならないので」という中身のない理由を添えるだけで93%に跳ね上がりました(正当な理由でも94%とほぼ同じ)。人は感情で判断し、論理は後づけします。だからこそ、理由があるという事実だけで、感情が納得に近づくのです。
達人の境地――「コントロールしない」人と、訓練が生む直観
本書の最後は、コミュニケーションの達人がどんな人かに踏み込みます。意外にも、達人は相手を操ろうとしません。
「どちらか一方でも、『相手を思い通りに動かそう』と考えている限りは、真のコミュニケーションは成り立ちません。コミュニケーションの達人は、相手をコントロールしようとしていない」
脅したりおだてたりして一時的に人を動かしても続きません。達人は相手の成長を意識し、コーチングのように接する。失敗を他人のせいにせず、自分の反省の糧にする。耳の痛い話にも聞く耳を持つ。ここでもメタ認知が効いています。
そして本書は「直観」の価値で締めくくります。ハドソン川の奇跡では、サレンバーガー機長が両エンジン停止という絶望的な状況で、わずか35秒の判断時間で川への不時着を選び、全員を救いました。これは天才のひらめきではありません。長年のシステム2(熟慮)の訓練が、システム1(直観)として身体に落とし込まれた結果です。
「この世界で生きていくということは、自分の芯を持ちながら、別のスキーマを持った人々の立場や考え方を理解し、折り合いながら暮らしていくことです。」
生成AIが流暢な答えを量産する時代だからこそ、自分の頭で考え、対話し、直観を鍛え直す。本書はそこに人間にしかできない価値を見ています。
明日から何を変えるか
- 「わかり合えない」を出発点にする。相手が同じ前提を持っていると期待せず、ミスを「なぜできない」と責める前に「前提知識が違ったのでは」と疑う
- 指示や依頼には必ず「なぜ」を添える。理由があるだけで相手の感情は納得に向かう
- 説明は結論+複数の具体例で組み立てる。一つの例だけで終わらせず、点を面に広げて誤解を防ぐ
- 直感的に「これが正しい」と思ったときこそ、システム2で立ち止まり、自分にバイアスがかかっていないか振り返る
ひとつだけ付け加えるなら、ネガティブな報告を受けたときの態度です。ミスの報告に上司が顔をしかめると、部下は次から報告をためらいます。「早く報告してくれて助かった」と返すだけで、隠蔽のサイクルを断てます。
おわりに
この本は「相手を思い通りに動かす魔法の言葉」を教えてくれません。むしろ逆で、「人はそもそもわかり合えない」という前提から始めます。
でも、それは絶望の話ではありません。わかり合えないと知っているからこそ、丁寧に前提をすり合わせ、理由を添え、相手のスキーマを想像できる。伝わらないのは相手のせいでも、自分の言い方のせいでもない。ただ、見ている世界が違うだけ。そう思えると、何度説明しても伝わらない相手にも、もう一度向き合えそうな気がします。
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『わかりあえないことから』平田オリザ 本書の「わかり合えないことを出発点にする」という発想を、演劇人の視点から深掘りした一冊。スキーマのズレを認知科学で説明する本書と、対話論から語る平田さんの議論を並べると、すれ違いの正体がより立体的に見えてきます。
『伝える力』池上彰|「わかっているつもり」が、いちばん伝わらない 本書が「流暢性バイアス」や「他人の知識=自分の知識」の錯覚を指摘するのに対し、池上さんは「わかっているつもり」をどう崩すかを実務的に語ります。理論で納得したあと、伝える側の具体技術を補いたい人に。
『すごい言語化』木暮太一|「語彙力がない」は、伝わらない本当の原因ではなかった 伝わらない原因は語彙ではないという問題設定が本書と重なります。本書が「具体と抽象の往復」を説くのに対し、木暮さんは言葉の解像度をどう上げるかに踏み込むので、解決策の手数を増やせます。


