「最近どう?」と聞かれて、つい「いやー、忙しくて」と答える。
その一言、自分でも気づかないうちに、ちょっと誇らしげになっていませんか。
『ロングゲーム』が最初に突きつけてくるのは、その感覚への冷や水です。忙しい人は仕事ができる人ではなく、自分のスケジュールさえコントロールできない人だ──著者はそう言い切ります。
著者のドリー・クラーク氏はビジネススクールの教授で、エグゼクティブ・コーチ。短期的な成果ばかりが求められる時代に、あえて「10年単位」で人生を組み立て直す方法を説いた一冊です。読み終えてまず変わるのは、テクニックではなく、自分が普段どの時間軸で生きているかという自覚のほうでした。
この本が突いている「忙しさ」の正体
著者がまず解体するのが、「忙しさ=有能さ」という思い込みです。
生産性が落ちるとわかっていても、なぜ私たちはスケジュールを埋めたがるのか。著者の見立ては、なかなか痛烈です。忙しさは「自分は必要とされている」という証明になって自尊心を満たしてくれる。同時に、予定をびっしり入れておけば「これは本当に自分が望んだ人生か」という直視したくない問いから逃げ続けられる。だから人はあえて自分でスケジュールを埋める、というわけです。
何か大きな欠点をもつことは、偉大さを達成する唯一の方法だ。欠点をもつことを拒否すると、無難な結果しか手に入らない(ドリー・クラーク『ロングゲーム』より)
この一文が、本書全体の通奏低音になっています。すべてを平均以上にしようとするほど突き抜けられない。だから何かを切り捨てる──忙しさの否定は、そのまま「選ぶこと」の話につながっていきます。
ちなみに本書には、戦略的思考の重要性とそれに割く時間のなさを対比させた調査数字が出てきますが、その落差を数字で見せられると、自分のカレンダーを思わず開きたくなります。
全部やろうとしない、という戦略
本書は「余白」「集中」「信念」の3部で組まれています。忙しさをハックして考える時間を作り、その時間をどこに投資するかを決め、結果が出ない停滞期をどう耐えるか。この順番そのものが戦略になっている設計が、私は気に入っています。
なかでも刺さったのが、余白を作るための「断り方」です。著者のルールは極端なくらいシンプルで、「すごい! 絶対やる!」と心から興奮しないお誘いには、すべてノーと言う。中途半端に良いものを引き受けるから、本当に偉大なことをやる時間がなくなる、という発想です。
面白いのは、断ることが攻撃ではなく防御でもあること。即答せず「具体的にどんな話を?」と質問を返すだけで、下調べもせず図々しく頼んでくる相手をかなりの割合でふるい落とせる、と著者は言います。その「かなり」が具体的に何分の1なのかは、読むと思わず笑ってしまう数字なので、本書で確かめてみてください。
集中のパートで語られる「お金ではなく興味に投資する」「20%を実験に充てる」「一度の行動で複数の成果を取る」といった切り口も、それぞれに印象深い実在の人物のエピソードがついています。ただ、ここで全部を並べるのは野暮でしょう。どれもデータや事例の引きが効いていて、要約で読むより本人の語り口で味わったほうが断然いい。代表例は次の章で一つだけ紹介します。
「失敗」を「実験」と呼び替える
私がこの本でいちばん持ち帰りたかったのは、最後の「信念」パートでした。
新しい挑戦で結果が出ないと、人はそれを「失敗」と呼んで落ち込みます。でも著者は、初期の挑戦はすべて「実験」だと言い切る。実験であれば、どんな結果もデータ収集にすぎず、失敗ではない。この一語の置き換えだけで、行動のハードルが驚くほど下がります。言葉遊びのようでいて、これは認知の組み替えです。
説得力があるのは、著者自身が生々しい挫折を語っているからです。本を出すための企画書を複数書いてことごとく断られ、それでも無名のままブログを書き続けた。最初の本を出せたのは目標を立ててから何年も後で、そこからさらに歳月をかけて、教授就任や多言語翻訳といった成果にたどり着く。その「何年」の長さを知ると、自分の焦りがいかに短気だったか思い知らされます。
そして本書の核心は、人間の成長が指数関数的だという話に集約されていきます。最初は変化が小さすぎて、本人も周りも「何も進歩していない」と勘違いする──著者はこの停滞期を独特の言葉で呼びます。チェス盤に米粒を倍々で置いていく古い逸話を引きながら、その怖さを描く場面は本書のハイライトのひとつ。最後のマスにいくつ積み上がるのか、その途方もない数字は、ぜひ自分の目で確かめてください。複利が効き始める前に降りないこと。それが勝負を分ける、というメッセージが胸に残ります。
どんな人に効くか
この本は、すぐ使える時短テクや小手先のライフハックを探している人には物足りないはずです。扱っているのは、数ヶ月では動かない、人生の時間軸そのものだからです。
逆に、毎日タスクを片づけるだけで一日が終わり「自分はなぜこの生き方を選んだんだろう」とふと不安になる人、努力しても結果が出ず周りと比べて焦っている人には、強く効きます。停滞期の只中にいる人ほど、読む価値があるでしょう。
著者は最後に問いかけます。他人の目を気にせず、自分だけの成功の定義を見つけ、自分のペースで人生を生きる。それができたら、どんな気分になるのだろう、と。この問いに即答できない人ほど、本書は刺さります。10年後の自分を幸せにできるのは、今日「ノー」と言って余白を作った自分だけだからです。
合わせて読みたい
『不完全主義』オリバー・バークマン 本書が説く「すべてにイエスと言うのは凡庸になること」という考えを、さらに深く掘り下げた一冊です。全部やろうとするのをやめ、余白を作る勇気を後押ししてくれます。
『世界一やさしいやりたいことの見つけ方』八木仁平 本書の「お金ではなく興味に最適化する」という戦略を、具体的な自己分析の手順に落とし込んだ本です。20%の時間を何に使うか迷っている人に、最初の一歩のヒントをくれます。
『「長期思考」が人生を変える3つの理由』 ロングゲームの核心である「長期思考」を、別の角度から整理したコラムです。努力が報われないと感じている人が、なぜ時間軸を伸ばすと景色が変わるのかを再確認できます。


